父の一周忌

 今年の夏に父の一周忌が行われた。父は、昨年の七月中旬に亡くなった。前年の春に北陸のある都市から長男である兄を頼って関東地方に母と共に移住した。送別会を催し近隣に感謝を述べ、田舎を引き払った。

 大学生の頃の自分にとって、父は、一番尊敬する人だった。大家族の長男として戦中に青春時代を過ごした、自分よりも親や兄弟のために生きた尊敬に値する人であった。自分が幼稚園の頃は、釜のふたをひっくり返してそこを飯台として食事の一式を並べて食事していた。

「こんなもん食えるかぁ!」といった幼い自分を母が小脇に抱え、蔵の中に一目散に走りこんだ。尻をぶたれ暗がりの中に放置された自分は泣き叫んだ。あまりの泣き声におばが救いの手を差し伸べてくれた。スローモーションのようにその場面を思い出す。その様子を見てどちらが正しいという訳でもないなと幼い自分は思い、自分の所業の悪さに情けない思いをした。そんな一族困窮した時に一番頼りにされた存在の一人が父であった。

 父は、九十歳になろうとしていた。自分は、あと一年で定年退職を迎える時期であった。兄嫁と近所の公園で桜の花を愛で樹下でたたずんだという。夫婦で仲良く散歩したという話が聞こえてきた。いつまでも自分にとって厳父として構えてくれるはずであった。

 しかし、秋口になると父は、衰弱からか脚力が急速に弱まってきた。家の中でも杖がないと動きがとれないというような訴えが聞こえてきた。聴力を補強する器具が不具合だ。なかなか周囲の説きふせる声に納得せず、兄に向かって訴える。双方の主張を聴き分けてみるとどちらともいえない。でも今までこんな父と周囲とのすれちがいは見たことも聞いたこともなかった。転居による住環境の変化は、高齢者にはきつかっただろう。ケアマネージャーが入ったが、混乱を収拾できないまま近くの病院に緊急入院することとなってしまった。11月であった。そのころはまだ元気でいてくれるだろうと自分の顔を見る気丈な父を見てそう感じていた。

 がんも心臓病も種々の病も母の看護のおかげもあり、克服してきた父であった。なんとか大丈夫だろう。次の準備のために介護施設や病院施設の情報を迅速に集め検討する必要があった。迷妄な自分にはまだまだ父にやってあげたいことが山ほどもあるような気がしていた。まだ元気でいてくれるだろう、自分にとって高い壁であり続けた父だったのだから。

 年が明け、介護専門病院に入院した父は、普通の暮らしから急速に遠のいていった。父は、兄に「自分史」を書きあげたんだから自費出版したいと話したという。でもかかる経費のことから反対され、残念そうだったと聞いた。たいして浪費をするでもなくここまで来たんだからやってあげればいいと自分は思っていた。梅の花の季節を乗り越えた。もうじき桜の花のつぼみがふくらむ頃父は、長期に入院することになった。自分が退職することを待っていたように。「俺はまだ、ついている。」といったという。

 父の入院は、様々な困難を抱えこんだ自分がやっとの思いで指折り数え待った定年三日前であった。父は、介護施設として備えのしっかりしている病院に入院した。その時、それはないだろうと心の中で叫んだ。退職を機に購入したハイブリッド車が母や兄嫁を病院まで送迎することとなった。それから二か月余りの月日は、自分の行動が錯綜し、記憶を整理する間もなく今日に及んでいる。日々、衰弱するばかりの父を見る耐えがたき思いは、人が存在することのつらさを凝縮した感慨があった。

 母は、丁寧な手紙まで書いて父を励ました。自分の都合の悪い時に兄嫁は、自転車を使って遠路病院まで見舞った。もちろん自分は、都合のつく限り母を伴い病院に通い詰めた。病院の介護状況に飽き足らず、附属病院専門医に協力を訴え転院して元気づけるという手段にもでた。しかし、衰えを防ぐことは難しい状況になっていった。だめでもともとできるだけのことをやってあげようと決心し知る限りの手を打った。

 母は、体調をくずし持病の検査にも病院に通った。看護を続ける家族、兄弟たちに笑顔を見せる父であったが言葉にださなかった。ありがとうという訳でもなく、ひたすら生きることに集中している姿を自分たちに見せていた。おじさん方の見舞いに何か言うかなと見守っていたがなかった。懸命に生きていた。

 更に転院を続けた父は、肺炎を患っていて根治しない限り次のステップにすすめないと医師に告げられ薬剤投与の翌明け方に息を引き取った。

 不思議なことに自分には、言葉も涙もなかった。父の思いは、自分の胸にあった。父の遺志を形に残そうと「自分史」の編集に取り組み、一周忌の二か月前には特に集中して取り組んだ。一周忌に父の思いをのこした60ページ余りの冊子ができあがった。